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名古屋オーシャンズ
「『お前の人生壊すから』と言われました(笑)」。
安藤良平が神奈川県1部リーグのライオンズフットサルクラブでフットサルを始めたとき、現在はライオンズSC代表で、かつてはPSTCロンドリーナでプレーしていた臼杵尊士氏にそう言われたという。
フットサル選手としてのポテンシャルを臼杵氏に見出された安藤は、同じくPSTCロンドリーナの元選手で湘南ベルマーレのコーチを務めていた奥村敬人氏を介してそのとき監督だった小野直樹氏と話す機会が設けられた。
そこで「練習に参加したい」と伝え、練習生から始まって2011年に入団が決定。実力を認められた安藤は、Fリーガーとしての道を歩み進めた。
その後、名古屋オーシャンズへ移籍し、今では日本代表選手に。当時、大卒で社会人として働いていた安藤の人生は文字通り「壊れた」と言っていいだろう。
フットサルを始める前の安藤は神奈川県立逗葉高校、神奈川大学といった強豪校でサッカーをプレーしていた。ポジションは主に左サイドハーフ。大学時代は、今はサンフレッチェ広島に所属する佐々木翔が左サイドバックでコンビを組んでいた。
強豪校が故に、トップチームから外れることもあったが、天皇杯出場や4年生のときにはアシスト王などの実績を残すことができた。狭い局面でプレーすることが好きだった安藤は2年生のときに開幕したFリーグに興味を抱き、卒業と同時に逗葉高校のOBが多くいたライオンズフットサルクラブに入団する。
「僕より2学年上の先輩が誘ってくれたのがきっかけで練習に行くようになりました。誘ってもらっていなかったらフットサルを本気でプレーする選択肢はなかったと思います」
社会人として働きながら夜はライオンズで練習に通う生活が始まった。サッカーで培ってきた技術で早速活躍していた安藤は、臼杵氏にFリーグを意識して練習するよう言われ、紹介を経て湘南の練習生になる。
しかし、一つ問題があった。
同じ神奈川県内とはいえ、安藤の職場と小田原とは距離が離れておりトレーニングには週に1回しか通えなかった。そこで安藤は仕事を辞める決心をし、一念発起をしてフットサルに懸けた。
アラを主戦場に、すぐに湘南の主力選手として活躍をするとピヴォやフィクソのポジションをこなすようにもなり、欠かせない存在になっていった。
また、湘南で関わった様々な人との出会いが、安藤の意識をより変えた。
そのうちの一人が、奥村氏だ。「敬人さんには入ってからずっと良くしてもらっていました。敬人さんと一緒にいたことでフットサルに対する想いからプレーの細かいところまでを教えてもらいました」。
2012年からクラブの指揮を執った相根澄監督からは向上心をより強くさせられた。
「相根さんはイタリアの優勝争いをするようなクラブで外国人選手としてプレーしていました。日本代表選手としても戦った経験があるからこそ、僕らにもいろいろなことを伝えてくれた監督でした。そこで『まだまだダメだな』と思わされましたね」。
安藤が在籍していたときの湘南は上位に食い込むクラブではなく、40分中30分も試合に出て攻守に渡って奮闘していた。そんな安藤にエネルギーを与えていたのが、がんと闘いながら今もプレーしている久光重貴の存在だった。
安藤良平が神奈川県1部リーグのライオンズフットサルクラブでフットサルを始めたとき、現在はライオンズSC代表で、かつてはPSTCロンドリーナでプレーしていた臼杵尊士氏にそう言われたという。
フットサル選手としてのポテンシャルを臼杵氏に見出された安藤は、同じくPSTCロンドリーナの元選手で湘南ベルマーレのコーチを務めていた奥村敬人氏を介してそのとき監督だった小野直樹氏と話す機会が設けられた。
そこで「練習に参加したい」と伝え、練習生から始まって2011年に入団が決定。実力を認められた安藤は、Fリーガーとしての道を歩み進めた。
その後、名古屋オーシャンズへ移籍し、今では日本代表選手に。当時、大卒で社会人として働いていた安藤の人生は文字通り「壊れた」と言っていいだろう。
湘南での経験が今の安藤を作り上げた
フットサルを始める前の安藤は神奈川県立逗葉高校、神奈川大学といった強豪校でサッカーをプレーしていた。ポジションは主に左サイドハーフ。大学時代は、今はサンフレッチェ広島に所属する佐々木翔が左サイドバックでコンビを組んでいた。
強豪校が故に、トップチームから外れることもあったが、天皇杯出場や4年生のときにはアシスト王などの実績を残すことができた。狭い局面でプレーすることが好きだった安藤は2年生のときに開幕したFリーグに興味を抱き、卒業と同時に逗葉高校のOBが多くいたライオンズフットサルクラブに入団する。
「僕より2学年上の先輩が誘ってくれたのがきっかけで練習に行くようになりました。誘ってもらっていなかったらフットサルを本気でプレーする選択肢はなかったと思います」
社会人として働きながら夜はライオンズで練習に通う生活が始まった。サッカーで培ってきた技術で早速活躍していた安藤は、臼杵氏にFリーグを意識して練習するよう言われ、紹介を経て湘南の練習生になる。
しかし、一つ問題があった。
同じ神奈川県内とはいえ、安藤の職場と小田原とは距離が離れておりトレーニングには週に1回しか通えなかった。そこで安藤は仕事を辞める決心をし、一念発起をしてフットサルに懸けた。
アラを主戦場に、すぐに湘南の主力選手として活躍をするとピヴォやフィクソのポジションをこなすようにもなり、欠かせない存在になっていった。
また、湘南で関わった様々な人との出会いが、安藤の意識をより変えた。
そのうちの一人が、奥村氏だ。「敬人さんには入ってからずっと良くしてもらっていました。敬人さんと一緒にいたことでフットサルに対する想いからプレーの細かいところまでを教えてもらいました」。
2012年からクラブの指揮を執った相根澄監督からは向上心をより強くさせられた。
「相根さんはイタリアの優勝争いをするようなクラブで外国人選手としてプレーしていました。日本代表選手としても戦った経験があるからこそ、僕らにもいろいろなことを伝えてくれた監督でした。そこで『まだまだダメだな』と思わされましたね」。
安藤が在籍していたときの湘南は上位に食い込むクラブではなく、40分中30分も試合に出て攻守に渡って奮闘していた。そんな安藤にエネルギーを与えていたのが、がんと闘いながら今もプレーしている久光重貴の存在だった。
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