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「サテライトの後輩に『イソくん、昇格って発表されましたっけ?』って言われたんです(苦笑)」
4月1日、名古屋オーシャンズから磯村直樹の昇格が発表された。
リリースには、シュライカー大阪からアルトゥールの加入と日本国籍の取得を目指していることも併せて発表されていたため、2つの大きなインパクトに磯村のことは見事にかき消されてしまったのだ。
とはいえ、昨シーズンはFリーグ選抜のキャプテンとして奮闘し、大きく成長したことで昇格を勝ち取ったことは変わりない。トップチーム昇格はゴールではなく、スタートにすぎないが、そこまでの道のりは苦労の連続だった。
なでしこチャレンジリーグに所属するNGUラブリッジの磯村健監督が父親で、母親も元サッカー選手。その影響で、磯村は物心ついたときから家の近くの大きい公園で朝から晩までボールを蹴っていた。
小学生のとき、名古屋グランパスU-12に入団。水戸ホーリーホックの森勇人や松本山雅FCの杉本太郎らも在籍していた。チームが東海大会で優勝した際、メダルを授与されたのだが試合に出ることのなかった磯村は、「これはいらん」とメダルをそのまま会場に置いてきたこともあった。
そのエピソードを父親は知らないそうだが、磯村が楽しそうにプレーしていない姿を見ると「もうサッカーを辞めたら?」と声をかけていた。職業柄、プレーについていろいろ教わることも多かったが、楽しんでプレーすることが前提としてあった。
グランパスみよしFCでプレーしていた中学時代の2年間は、父親が自分のチームの監督を務めていた。
「練習が終わって『今日は自分のプレーが良くなかったな』と思うときがあったら家でお父さんが帰ってくるよりも早く寝るようにしていました(笑)」
それでも、サッカーが好きだった磯村は「おもしろいサッカーがしたい」という強い想いから、高校時代は愛知県を離れ静岡県の名門・藤枝明誠高校へ進学する。
高校時代は、自主練をするために朝の5時半に学校の正門を自分で開けて「まだ真っ暗な中でボールを蹴っていました(笑)」とサッカー漬けの毎日を送っていた。しかし「トータルで考えると、充実した3年間ではなかったんです」と本人は言う。
3年生になって念願だったAチームに昇格。センターバックとして出場したプリンスリーグの第2節で、自分の裏を取られてしまい磯村は失点に絡んでしまう。さらには、パスを受けた際に相手のフォワードにボールを奪われたことでまたも自分のミスから失点。
2失点に絡んでしまったことで前半32分に交代させられ、しばらくボールを蹴るのも嫌になった。以前から「鹿屋体育大学に行きたい」と公言していた磯村は受験勉強を理由に、練習に行くことも少なくなった。しかし勉強も頑張るわけでもなく、最終的に実家から近いという理由と、サッカーが強いという理由で東海学園大学へ一般推薦で入学した。
しかしここでの出会いが、磯村をフットサルへの道に導く。
一時は嫌いになりかけたが「諦め切れなかったからというのと、結局サッカーしかやってこなかったので、別の道が分からなかった」という理由で、大学でもサッカー部に入部。そこで、一学年先輩だった山田翔司によく遊びのフットサルに誘われていた。磯村が大学2年生のとき、いつものようにフットサルに誘われ参加するとスクエアパスが始まった。
「なんかいつもと空気が違うな……」
そう思っていると、山田から「ここ、ちゃんとしたフットサルチームだから。俺もうやめるから後は頼むわ!」そう言われると、気がつけば愛知県リーグのフェルベリーノに入団していた。
日中はサッカー、夜はフットサルという生活を送っていたが3年生のときにフットサルの道を選択。そんなとき、幼稚園のころからの付き合いだった高見政顕にサテライトのセレクションを勧められる。
「フットサルが楽しかったとはいえ、(その当時は)上を目指すか、就職するかで迷っていました」
そこで、オーシャンズの試合を観戦しに行くと磯村は圧倒された。
4月1日、名古屋オーシャンズから磯村直樹の昇格が発表された。
リリースには、シュライカー大阪からアルトゥールの加入と日本国籍の取得を目指していることも併せて発表されていたため、2つの大きなインパクトに磯村のことは見事にかき消されてしまったのだ。
とはいえ、昨シーズンはFリーグ選抜のキャプテンとして奮闘し、大きく成長したことで昇格を勝ち取ったことは変わりない。トップチーム昇格はゴールではなく、スタートにすぎないが、そこまでの道のりは苦労の連続だった。
サッカーが好きだったからフットサルにも出会えた
なでしこチャレンジリーグに所属するNGUラブリッジの磯村健監督が父親で、母親も元サッカー選手。その影響で、磯村は物心ついたときから家の近くの大きい公園で朝から晩までボールを蹴っていた。
小学生のとき、名古屋グランパスU-12に入団。水戸ホーリーホックの森勇人や松本山雅FCの杉本太郎らも在籍していた。チームが東海大会で優勝した際、メダルを授与されたのだが試合に出ることのなかった磯村は、「これはいらん」とメダルをそのまま会場に置いてきたこともあった。
そのエピソードを父親は知らないそうだが、磯村が楽しそうにプレーしていない姿を見ると「もうサッカーを辞めたら?」と声をかけていた。職業柄、プレーについていろいろ教わることも多かったが、楽しんでプレーすることが前提としてあった。
グランパスみよしFCでプレーしていた中学時代の2年間は、父親が自分のチームの監督を務めていた。
「練習が終わって『今日は自分のプレーが良くなかったな』と思うときがあったら家でお父さんが帰ってくるよりも早く寝るようにしていました(笑)」
それでも、サッカーが好きだった磯村は「おもしろいサッカーがしたい」という強い想いから、高校時代は愛知県を離れ静岡県の名門・藤枝明誠高校へ進学する。
高校時代は、自主練をするために朝の5時半に学校の正門を自分で開けて「まだ真っ暗な中でボールを蹴っていました(笑)」とサッカー漬けの毎日を送っていた。しかし「トータルで考えると、充実した3年間ではなかったんです」と本人は言う。
3年生になって念願だったAチームに昇格。センターバックとして出場したプリンスリーグの第2節で、自分の裏を取られてしまい磯村は失点に絡んでしまう。さらには、パスを受けた際に相手のフォワードにボールを奪われたことでまたも自分のミスから失点。
2失点に絡んでしまったことで前半32分に交代させられ、しばらくボールを蹴るのも嫌になった。以前から「鹿屋体育大学に行きたい」と公言していた磯村は受験勉強を理由に、練習に行くことも少なくなった。しかし勉強も頑張るわけでもなく、最終的に実家から近いという理由と、サッカーが強いという理由で東海学園大学へ一般推薦で入学した。
しかしここでの出会いが、磯村をフットサルへの道に導く。
一時は嫌いになりかけたが「諦め切れなかったからというのと、結局サッカーしかやってこなかったので、別の道が分からなかった」という理由で、大学でもサッカー部に入部。そこで、一学年先輩だった山田翔司によく遊びのフットサルに誘われていた。磯村が大学2年生のとき、いつものようにフットサルに誘われ参加するとスクエアパスが始まった。
「なんかいつもと空気が違うな……」
そう思っていると、山田から「ここ、ちゃんとしたフットサルチームだから。俺もうやめるから後は頼むわ!」そう言われると、気がつけば愛知県リーグのフェルベリーノに入団していた。
日中はサッカー、夜はフットサルという生活を送っていたが3年生のときにフットサルの道を選択。そんなとき、幼稚園のころからの付き合いだった高見政顕にサテライトのセレクションを勧められる。
「フットサルが楽しかったとはいえ、(その当時は)上を目指すか、就職するかで迷っていました」
そこで、オーシャンズの試合を観戦しに行くと磯村は圧倒された。
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