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【荒牧太郎×星翔太・親友対談/前編】背中を追い掛けて、追い付いて、一緒に歩いて。「翔太がいなければブラジルには行かなかった」(荒牧)

2019.10.03

インタビュー

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名古屋オーシャンズ



「バトンを受け取れたからスピード感を持って進めた」(星)




──全日本選手権で優勝後、2人とも浦安に移籍してFリーグのピッチに立ちました。また一緒のチームですね。

荒牧 僕は大会後にオファーをもらえたので、翔太とはタイミングが違いました。たまたま一緒にできることになったという感じ。

 僕は大会前から退団を決めていましたからね。

──浦安には、日本フットサルを引っ張ってきた選手がたくさんいました。そういう選手と一緒にやることで、自分のやるべきことが見えていったような感覚はありましたか?

 相当ありましたね。(藤井)健太さんは退団されましたけど、日本代表の中心選手や日本を引っ張ってきた選手がほとんどいたような時期でした。もっさん(岩本昌樹)にイナさん(稲田祐介)、ユウくん(小宮山友祐)、イチさん(市原誉昭)、(稲葉)洸太郎さん、(中島)孝くん、ヒラさん(平塚雅史)……。そういう選手のなかに僕らが入りました。シト(リベラ)監督は、若い選手を簡単に使わない指揮官だとされていたので、自分たちは出られないんじゃないかって言われていましたね。1年くらいは厳しいだろうって。でも監督が交代した。彼が僕らのフットサル人生を切り開く契機を与えてくれたんだろうなって、今では思いますね。プロになるということに関して、すごく大きなきっかけをくれた監督でしたね。

──セサル監督ですね。

荒牧 そう。1年だけだったけどね。たまに連絡を取るんだけど、長いことカタールのアル・ラヤンで監督をしています。今年も「オーシャンカップはどこが勝ち上がっているんだ?」って(笑)。僕はやはり基礎が足りなかったので、セサルの影響をモロに受けていますね。ブラジルから帰国して、須賀(雄大)さんに信頼して使ってもらえていた時期はフウガが戦術を取り入れているタイミングだったからすごくよかったし、さらにそれを深める意味でも、セサルはすごく細かくていねいにやってくれました。

──選手にとって「プロ監督」の存在はすごく重要ですよね。

 浦安はスペインの流れを汲んでいて、大雑把ではなく緻密さを求めるクラブで、セサルはそのなかでもより緻密な監督だった。「作戦ボード上では絶対に負けない」って言ってたよね。

荒牧 よく言ってたね。

 「どうやったって対策は立てられる。でもそれだけで勝てないのが試合だ。でも、お前らが困ったときに、ボード上で説明してくれと言えば何でも説明できる」って。そういう監督だから僕らによりフィットしていたと思います。ブラジルで学んだゴールに向かう姿勢だけではなくて、そこに向かう過程で何をしないといけないかを教えてもらえたことが大きかったですね。

──ブラジルでは「ゴール」という競技の本質的なことを感じて、それを体現するための理詰めの部分をセサルから吸収したと。その流れは、2人が結果的にスペインを選んだことと無関係ではないですよね。

荒牧 翔太は浦安に行ってからずっと代表に呼ばれてたよね。だから、セサルに加えて(当時の日本代表を指揮したスペイン人監督の)ミゲル(ロドリゴ)にも学んだ。僕は呼ばれてないからセサル1本だったけど、ミゲルからもスペインに移籍するべきだって言われていたし、セサルにいたっては、「お前は今シーズンが終わったらスペイン行くんだろ?」ってもう勝手に話が進んでた(笑)。

──それで、行くと。

荒牧 そう。セサルの知り合いの家にホームステイできるように決めておいてくれたので、あとは往復航空券を手配するだけでよかったから。少し前までスペインのハエンというクラブでキャプテンをしていたホセ・ロペスという選手の家に泊まらせてもらって、そこでスペインに行かないといけないんだということを痛感しました。ただ、次のシーズンは浦安に残ったんだけど、翔太はそこでスペインに行く手続きを始めていた。で、翔太がちゃんと移籍してプレーしてくれていたからこそ、セサルの言うように、自分もスペインでやらなきゃいけないという確信に変わった。翔太は実績を積んでステップアップしていますけど、俺は、翔太が行くから行く、セサルが行くんだろと言うから行くみたいな感じで、引っ張ってもらっていました。

──星さんは浦安で1年プレーして、翌年スペインへ行ったんですよね。

 ミゲルと僕の代理人が同じ人だったので、(スペインのクラブに)評価されやすい環境だったのかもしれません。でも移籍は本当にギリギリまで決まりませんでした。

荒牧 当時は毎日一緒にいたからよく覚えているけど、本当に大変だったよね。浦安の練習が終わって、深夜3時までファミレスで話し込んでた。フットサルの話をして、解散して、翌日も一緒に練習に行って、またファミレス(笑)。移籍の手続きが進まないときは「いや、もう進まねーよ」って嘆いてたね。

 浦安で練習はさせてもらっていたけど、チームを退団していて登録ができないから、Fリーグが始まってもプレーできないし。向こうとはシーズンの始まりと終わりのタイミングも違うからね。

荒牧 (スペインのシーズンが始まる直前の)8月ギリギリだった。

 チームの始動後に合流したからね。

荒牧 いやぁでも、浦安で一緒に過ごした1年は、本当に毎日一緒でいろんな話をしたよね。監督の伝えたこととか先輩のプレーとか。「あれ見た?」って2人で答え合わせをしていた。

 そうそう。昔は、イチさんとか先輩たちが日夜やっていた10円玉を(選手に見立てて、机上で作戦ボードのように)動かしてみたいなことを、2人でやってたね。

荒牧 よく覚えているのは、イチさんと友祐さんが練習後に(飲み物が入った)ボトルやビブスをまとめていて、スタッフが片付けやすいようにしていたのを、「あれ見た?」、「ああ、やってたよね」みたいな。そういうことに気がつく感覚も似ていた。それに(ピヴォとフィクソで)ポジションが違うから「後ろ的には」とか「前からすると」って互いにフィードバックできた。同じポジションだと難しいけど。

 ライバルだからね。

荒牧 そういう話を1年間して、翔太はミゲルから代表に呼ばれ続けて、シーズンが終わってスペインに移籍して、2年目の浦安は、僕のなかでは勝手に最後のシーズンって思っていました。世間的には評価されていた選手というわけじゃないのに(苦笑)。浦安のいち選手だったけど、(スペインに)行かなきゃって。

──1年目の終わりに行ったスペインで移籍を決めなかったのは?

荒牧 セサルからは、とりあえず練習参加に行けって言われていたんです。1カ月だけ。そこからセサルが移籍先を探すこともしてくれていたのですが、うまく進まなかった。

──もともと契約の話ではなかったんですね。

荒牧 そうです。で、そのタイミングで(髙橋)健介さんが登場します。ハエンから帰る際の経由地のマドリードで前日に1泊するんですけど、それを健介さんの家にしてもらったんです。代表でいつも同部屋だった翔太から話を聞いていただけで、僕自身は面識がないのに(笑)。

──健介さんに話を聞けば間違いないだろうと。

荒牧 そうそう(笑)。それでいきなり「僕が感じた日本とスペインの違いってここなんですけど……どう思いますか?」って。やっぱり夜中3時まで話し込んじゃって、「太郎ごめん、明日練習だから寝るわ。明日は起こせないからな」って(笑)。それで、奥さんがタクシーを呼んで手配してくれた。翔太とよく話していたけど、(スペインでプレーした)グレさん(木暮賢一郎)や健介さんは、それが合っているのか間違っているのか、手探りでやらなきゃいけなかったんだよねと。翔太は代表で常に答え合わせできた。あれって、ミゲルが健介さんと同じ部屋になるように仕込んだんだよね?

 あとで健介さんに聞いたけど、ミゲルから「あいつを育てないといけない」と言われてたって。だから同じ部屋で、映像を見ながら、これがよくないとか、これがいいとか、これは見た方がいいとか。あの時間がすごく大きかった。たとえば、あの頃はセサルから「ボールに寄ってトラップを動かせ」って言われていて。今では主流ですけど、そのときの日本は、サイドにいて、来たボールを受けて動かすことが「トラップを動かす」だった。セサルは執拗なまでに「ボールを動かせ、動かせ」って言ってたけど、あるときに健介さんのプレー映像を見たら、自分たちがやっているものとは違っていた。ボールに寄って行って、そこから動かしている。当時の日本にはその動きが存在していなかったということですね。アラコルタって、今は主流だけどね。

荒牧 それね。俺が気づけたのは偶然だった。ホセ・ロペスの家にホームステイしていたときにブハランセを見に行ったんだけど、そこに今はハエンで監督をしているダニー・ロドリゲスって選手がいて、小柄なフィクソなんだけどめちゃくちゃうまかった。足が速いわけでもないのに、ボールに触れない。みんなあいつを見失うんだって聞いた。自分は同じポジションだから見ていたんですけど、ボールを受ける頃にはもう勝負が終わっていて、それがアラコルタだった。エルポソとかバルサの映像を見ていて、(スペイン代表の)キケとかアルバロが歩いているのに、なんで取れないんだろうって思っていたのもそれで。健介さんと会ったときにその話をしたら、それが「アラコルタ」なんだって。「俺もスペインに来た頃にそれをやられて、次は絶対に中に来るだろうって対応したら、グッと止まって逆を突かれた。その2回が衝撃で、正体を探っていた」って。

 スペインにはこれが隠れているのか、と。これは来て体感しないといけないよねと。あとは、健介さんがピヴォから(どのポジションでもハイレベルなプレーを体現できるオールラウンダーへと)変わっていることも衝撃だったから、スペインのやり方が日本人が生きる道なのかなって感じて追い始めた。

──日本人の多くは、健介さんのプレーでアラコルタを知りましたよね。

 そう。でも日本はまだ、それができるレベルに達していなかった。

荒牧 ディフェンスの強度が高くないから。

──深いですね(笑)。

荒牧 こういうことを紐解いていったらキリがないよね。

──木暮さんも髙橋さんも含めて、みなさん空気感が似ているというか。求めていたんでしょうね。

 先人が苦労して見つけたスタイルを、僕はグレさんや健介さんを通して伝えてもらった。ものすごく刺激的なものでしたね。もちろん、彼らも伝える使命感があったと思いますし、こちらから求めた部分もありますけど、そうやってバトンを手渡していく文化を築いてくれたのかなと。それは、イチさんとかユウくんとか(金山)友紀さんたちがクラブチームでやっていたことでもあったと思います。受け渡していくなかで、僕たちに届くものがあった。未開拓のものを開拓していく作業をしてくれていた人が手に入れたもの。それをこちらに伝えてくれたからこそ、僕らはスピード感を持って進めたんだと思います。

荒牧 先輩は先に引退しちゃうから、今のうちに話しておこう。この先10年一緒にできるわけじゃないからって言ってたよね。なので、クラブでは先輩と、翔太は代表ではグレさんや健介さん、友祐さんとかと一緒にいて。そこで得た情報をファミレスでシェアしていくというサイクルでした。
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