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【1万字インタビュー】星龍太が語るオーシャンズの過去、現在、未来。「僕らがやるべきことは、フットサルだけじゃない」

2019.07.02

インタビュー

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名古屋オーシャンズ

クラブの礎を築いた先輩の背中を追い掛けてきた歩みの先で、名古屋オーシャンズを象徴する選手の一人になった。2011シーズンに加入して、翌年の1年間はチームを離れたが、再び戻ってきてから今日までのおよそ7年半の時間は、クラブが進んできたちょうど半分の道のりと重なる。

オーシャンズのキャプテン、星龍太。彼はこれまで、何を想い、考え、戦ってきたのか。そしてこの先、何を目指していくのか。クラブの過去、現在、未来をつなぐ龍太が、オーシャンズの“今”を語る──。

「亘さんの存在は、公私ともに大きかった」



──星龍太選手が初めてオーシャンズに加入したのは2011年。よく「ピリピリしていた」と聞きますが、改めてどういう選手がいて、どのような雰囲気でしたか?

日本のフットサルを背負ってきて、日本にフットサルを広めたと言ってもおかしくないくらいの経験のある選手たちが集まっていたイメージです。「日本を築いてきた人と一緒にプレーできる」といううれしさがありました。みなさんプライドがありましたし、体育会系のような部分もありました。上下関係は厳しかったです。若い選手はしごかれていましたね(笑)。

──リカルジーニョ選手とは一緒にプレーされていないですが、ペドロ・コスタ選手やマルキーニョ選手という世界的なレジェンドとプレーしました。印象を覚えていますか?

その2人がすごい選手だということを聞いてプレーの動画を見ました。僕はフットサルを始めてからまだ3年だったということもあり、あまり詳しくなくて……。でも、映像を見てからは、こんな選手と同じ時期に加入している感覚がすごく不思議でしたね。

あとは、酒井(ラファエル・良男)ですね。当時は外国籍選手の登録が4人までは可能だったので、(森岡)薫さんも酒井もまだ外国籍選手でした。小学生がプロ選手と同じチームにいるみたいな感覚ですよ(笑)。ペーペーの僕が、ものすごい選手と一緒にプレーできる。「これがプロか」と思いました。

──日本人も、国内屈指の選手がそろっていました。印象的な選手はいますか?

そのときは(北原)亘さんと薫さんが初期メンバーでした。亘さんは高校まで同じ学校でしたし、櫻井(嘉人)社長からも「面倒を見てもらえ」と促してもらって、コミュニケーションを取ってくれました。そういう意味でも、亘さんの存在は、僕にとって公私ともに大きいですね。

それと、亘さんももちろんそうですが、「名古屋オーシャンズの顔」ということでは、薫さんだったのかなと思います。

──星龍太選手の“ペーペー時代”の立ち位置はどうだったのでしょうか?

フットサルのキャリアも浅く、初心者のように扱われていましたね(笑)。アマチュアのチーム(FUGA MEGURO)でやっていて、須賀(雄大)さんが監督でしたけど、当然のことながら今より知識が深くはないことは仕方がないところでした。関東リーグや地域チャンピオンズリーグで勝てていた分、フットサルの奥深さを知らないままオーシャンズに入りました。

本当に何も知らないということを痛感した1年です。しがみつく感じで練習するのが精いっぱい。体力的にもキツかったですし、覚えることも多くて、体に染み付いていくまでが本当に大変でした。

──「練習のための練習」になっていたわけではない?

そういう感じではないですね。周囲のレベルやクオリティに全く到達できていないので、僕にとっては練習が試合みたいなものでした。高3の大会に高1の選手が、メンバーが足りないから出る感じ。「とりあえずAチームに行ってこい!」って、監督やコーチに言われてプレーしているような感覚ですね。

──試合の出場機会はほとんどなかったですよね。

そうですね。よく覚えているのは、湘南ベルマーレとの開幕戦に、途中から出させてもらいました。(ベルマーレにいた)ボラに、顔面を押さえられて縦突破されて、中に放り込まれてシュートを決められました。失点に絡んだことをアジウ監督にすごく言われました。その後、出番はなくなりました……。

──そのときはどのようなモチベーションで練習していたのでしょうか?

振り返れば、何も知らないのにプライドが高かったのかなと思います。守備でも、監督が「こうやるんだ」と言っても、「こっちの方がいいんじゃないかな」とプレーしてみたり。でも、一人がそういうプレーをすると、周りは合わせないといけない。仲間が予期しないことをしていたらやりづらいですよね。

開幕戦の失点も、反発心だったのかわからないですけど、亘さんには「こうだと思ったんですけどどうですか?」と聞いたり、川原(永光)さんに詰め寄って聞いたりしていました。でも周りとしては、「知識がないくせにそんなことを言うなよ」という感覚だったと思います。

試合に出るためには、監督やチームのオーダーをきっちりとこなして、その上で自分のよさを出さなければいけないことを感じました。フウガの頃はまだ、ミスをしてもある程度は許してもらえるような環境だったので、そこの感覚の違いがすごくありましたね。

──1年でクラブを移籍することになりました。当時のことを覚えていますか?

退団したくない気持ちがありましたが、社長からは「お前の年齢なら、試合に出た方が成長する」と言ってもらえて、悩んだ末に、府中アスレティックFC(現・立川・府中アスレティックFC)にレンタルのような形で移籍することになりました。考える期間を長くもらえたので、自分のなかで割り切れました。

──1シーズン府中でプレーして、オーシャンズに戻ってきました。

試合にはコンスタントに出させてもらえたので、練習では味わえないものがありました。府中には、同じ時期にヨシさん(前田喜史)が移籍してきましたし、テツさん(完山徹一)もいました。

オーシャンズを知っていて、なおかつキャリアのあるベテラン選手にフットサルを学びながら試合に出られたことがすごく大きかった。僕を送り出してくれた櫻井社長にはすごく感謝の想いがありましたね。

でも、オーシャンズに戻る話があったシーズン終盤の時期に前十字靭帯をケガしてしまいました。櫻井さんは「自分で決めていいよ」と言ってくれたので、僕は「戻りたいです」とお伝えしました。

──戻りたいという想いになったのはなぜですか?

前十字靭帯という大きなケガに加えて、他にもいろいろな箇所の故障を抱えていました。リハビリに1年近くかかると言われていたんです。櫻井さんには、そういう現状を伝えました。

府中では仕事をしながらリハビリしないといけないので、その時間が1日に多くても1時間しか取れません。治りが遅くなるばかりか、完治しないかもしれないと。でもオーシャンズであればリハビリに専念できるし、そこから試合に出るところまで上げていけるかは自分次第なので「やってやろう」という気持ちでした。

リハビリ期間を含めてオーシャンズに戻りたいという僕の決断を受け入れてもらえたんです。

──プロスポーツでは当たり前のことですが、毎年、契約更改があります。オーシャンズの場合、シーズン終盤はどのような雰囲気になるのでしょうか?

シビアな世界ですから、不安もありました。戻ってきたシーズンはケガから復帰してリーグ戦に出場できたのは1試合で、あとはプレーオフ2試合と全日本選手権。「短期間で結果を出さないといけない」という気持ちがあったので、僕自身はピリピリしていましたね。

ケガが治ってからは、1シーズンを通してのプレーが最後に評価されます。だから、コンスタントに自分のプレーを出せないとクビを切られてしまうのは当然のことなので、終盤になって焦り始めるようなことはありません。終盤の雰囲気としては、そういう個人のところよりも、「プレーオフで勝つ」とか、「選手権で優勝して終わりたい」とか、そういう気持ちになっていますね。

──シーズン中に、自分の評価をある程度は把握している?

手応えのあったシーズンはありますし、どれだけ試合に出られているかによって、(クラブや監督からの)信頼度はわかります。それでも、クラブや監督の構想と違えば外されることもある。プロチームが他にいないリーグだからこそ、チーム間の交渉が少ないためにいきなり戦力外通告を受けることもありえます。

 

【次ページ】 「オーシャンズの監督は、必ず先頭に立ってくれる」


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